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法と個人の行き違いと、法に従うことは別次元

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こんにちは!フレッチ(@Fletch_LF)です!

こんな記事を見つけました↓

汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ – 夢みるアンドロイド

この記事の後段、個人の正義と社会の法が食い違うことについて。

個人にとっての正義が、社会にとって悪とみなされることは往々にしてありうる。

ソクラテスもガリレオも、真理とは違った”正義”によって断罪されたのはよく知られています。

多数決は正義を保証するものではない。それは原理ではないのだ。現実的な解決を見出すための手段であり、手続きである。正しさを保証するものではない。かつては天動説が主流であり、ガリレオ・ガリレイが裁判で負けた事実をみてもそれは明らかだ。世間が正しいとは限らない。

私達が従うべき法は、上記のようにあくまで手段であり、手続きです。

世間が正しいとは限らないのです。

が、ソクラテスは”悪法もまた法なり”と言って毒杯を呷りました。

私はこれを、ソクラテスがよりメタな法に従ったのだと解釈しています。

カントいわく、”汝の意志の格率が、同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ”と。

たとえ自分を裁く法が、普遍的立法の原理として妥当しなくても、”その時に成立、施行されている法に従うこと”は、普遍的立法の原理として妥当するのです。

世間が間違っていても、法律が間違っていても、その妥当性よりもまず”法には従うべし”という格率に従わなければならない。

自分と世間に矛盾を抱えていたとしても、それでも法に従うことが、”善い”ことなんじゃないかと考えます。

だんだん何が言いたいのかわからなくなってきたのでこのへんで。
じゃあ、また。

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